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Apr
23rd
Wed
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川上弘美「なんとなくな日々」

  • 昔の日本の家は、今よりもずいぶん陰影に富んでいて、その中でも台所はさらに土に近い場所だった。今の台所は土からずいぶん遠くなった。それでも、土から来たものがここで煮たり焼いたりされ、野を駆けていたものがここで切りひらかれる。ほんとうはそんな実感などなしに、包丁を使ったり火を使ったりしているのであるが、実感はなくとも気持ちの奥ではそれを知っているのに違いない。ものみな萌え出づる春ともなれば、土の記憶は常よりも鋭く身の内によみがえるのに違いない。(台所の闇)
  • 世の中は、うまくまざっているようで、案外まざっていないのだな、というのがその時の感慨である。このところの世のさまざまな事件を見るにつけ、ノートに記憶したあの一週間の自分の生活のことを思い出す。まざらないまま、自分のいる場所こそが世界の中心なんだと思いこむことのこわさを、思う。(まざるまざらない)
  • 情報というのは薬と一緒で、使う本人のやり方次第で役にも立ち毒にもなるのだろうから、どんな情報だって、それが特定の個人をはなはだしく傷つける場合以外は、どんどん流されるべきものには違いない。(長良川)
  • 風邪をひいてしまった。「春の風邪」という言葉は、季語にもなっている。冬にはやるような重篤な風邪ではない。微熱に咳。ほてった頬をガラスに押しつけると気持ちいい、そういう風邪である。(春の風邪)
  • たっぷりとだしのきいたおつゆ。ほの甘いあぶらあげ。山椒とゆずのかおり。関東では絶対に食べられないきつねうどんである。体の芯のほうからあたたまってくる。気持ちが静かにほとびてゆく。(すっぽん)
Feb
4th
Tue
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」エピローグー人間的要素

  • 能力のなさゆえにではなく、特別な才能のひらめきゆえに、決まりごとから逸脱した書き方をする希少な学生を、Edexcelのソフトウェアはどうやって見分けるのだろうかとわたしは思う。答えはわかっているー見分けられまい。ジョゼフ・ワイゼンバウムが指摘したとおり、コンピュータは規則に従うのであって、判断は行わない。
  • コンピュータに頼って世界を理解するようになれば、われわれの知能のほうこそが、人口知能になってしまうのだ。
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」第10章 わたしに似た物

  • われわれを最も人間的にしているものは、われわれの最も計算不可能な部分だとワイゼンバウムは信じるに至ったーその部分とは、精神と身体とのつながり、記憶や思考を形成する経験、感情や共感の能力である。
  • われわれがコンピュータといっそう親密に関わるようになる際にーわれわれが人生の多くを、スクリーン上で点滅する身体を持たないシンボルを通じて経験するようになる際にー直面する大きな危険は、人間性を失ってしまうこと、われわれと機械を区別している特性そのものが犠牲にされることだ。この運命を回避する唯一の方法は、われわれの精神活動と知的追求における最も人間的な部分、とりわけ「知を必要とする作業」を、コンピュータにゆだねまいとする自覚と勇気を持つことだとワイゼンバウムは述べる。
  • あらゆる道具は、可能性を開くとともに、限界をも課すものだ。使えば使うほど、われわれはその道具の形式と機能に合わせて自分を仕立て直していくことになる。
  • テクノロジーがわれわれを強めると同時に弱めてもいるそのあり方を、知性におけるカルキンの師匠、マーシャル・マクルーハンが解明している。言及される機会は少ないものの、彼の最も洞察に満ちた著作のひとつである『メディア論』には、どの部分であれ、道具によって「増幅」されたわれわれの身体の部分は、最終的にはその道具によって「鈍く」されるのだとの記述がある。
  • 精神の道具が増幅すると同時に鈍くするのは、われわれの生来の能力のうち、最も内密で、最も人間的なものーすなわち、理性的思考、知覚、記憶、感情なのだから。
  • いつ食事し、いつ働き、いつ眠り、いつ起きるかを決めるにあたり、われわれは自分の感覚に耳をすませることをやめ、時計に従うようになった。
  • 地図作成者の技術により、われわれの先祖のナヴィゲーション・スキルは格段に増幅された。人間は初めて、行ったことのない土地や海を、自信を持って移動できるようになったー探検を、商業を、戦争を、歴史的規模で拡張することになる前進だ。
  • マクルーハンが指摘したかったのは、あらゆる新しいテクノロジーを、および進歩一般を正しく評価するには、何が得られたかに対する感受性だけでなく、何が失われたかに対する感受性も必要だということだ。
  • ミッチェルの記述によれば、「社会的思考に関与する部分の脳が、慢性的な活動過剰状態になった」ことで、「生物ではない物質」をも含め、精神の存在しないところにもわれわれは精神を認めるようになったのだ。さらに、それの精神が現実のものであれ想像上のものであれ、接触した相手の精神の状態を、われわれの脳は模倣する性質があることを示す証拠も多く発見されている。
  • 個々の自律性から来る面倒は一掃され、工場全体はより効率よくなり、アウトプットもより予想しやすくなった。産業は栄えた。面倒とともに失われたのは、個人のイニシアティヴ、クリエイティヴィティ、および気まぐれである。
  • コンピュータ・プログラマーのトマス・ロードが主張するように、ソフトウェアは最終的に、人間の活動のなかでも最も内密で個人的な部分を、その各段階が「ウェブページの論理でエンコードされている」心のこもっていない「儀式」へと変えてしまうかもしれないのだ。
  • 心的作業を自動化し、思考や記憶の流れをコントロールする強力な電子システムにゆだねるとき、われわれが直面する最大の危険のひとつは、科学者ジョゼフ・ワイゼンバウムと、芸術家リチャード・フォアマンの、両者ともに恐れに表明されていたものであるーすなわち、われわれの人間らしさ、およびわれわれの人間性の、ゆっくりとした侵食。
  • 穏やかで注意力ある精神を必要とするのは、深い思考だけではない。共感や同情もそうなのだ。
  • 「ある種の思考、とりわけ他者の社会的・心理的状況に関する道徳的決定を行うためには、充分な時間と考察が必要とされる。事態があまりに速く進んでしまった場合、他者の心理的状況にまつわる感情を、充分に経験できない可能性がある」
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」脱線ーこの本を書くことについて

  • けれども最も深刻な変化は、何世代にもわたるもっとゆっくりとしたペースで、テクノロジーが労働・余暇・教育に根づくにつれて展開されるーその変化は社会と文化を規定する、すべての規範、すべての週間において生じるものだ。われわれが「読む」方法は、どう変わりつつあるのだろうか?「書く」方法はどうだろうか?「考える」方法は?これらの問いは、われわれ自身に対してだけでなく、われわれの子どもたちに対しても問わねばならない問いである。
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」第9章 サーチ、メモリー

  • データ貯蔵に用いられる機械が、より大容量で、フレキシブルで、レスポンスのよいものになるにつれ、人工的メモリーと生物学的メモリーとの境界の曖昧化に、われわれは慣れていった。
  • ブルックスが言うように、記憶が「アウトソーシング」可能であるという考えは、歴史上、現在以外の時点においては想像もできないものであったろう。古代ギリシア人にとって、記憶は女神だったーミューズたちの母、ムネモシュネである。アウグスティヌスにとって、それは「巨大かつ無限の深み」、神の力が人間に反映されたものだった。
  • 長期記憶の貯蔵には、新しいタンパク質を合成する必要がある。短期記憶の貯蔵にこれは必要ない。
  • 言い換えれば、長期記憶の形成には、生化学的変化だけでなく解剖学的変化もともなうのである。なぜ記憶の固定化に新しいタンパク質が必要であるか、これで説明がつくとカンデルは考えた。
  • 記憶間の結合の多くはおそらく、われわれが眠っているとき、つまり海馬が認知上の雑事のいくつかから解放されているときに、形成されるのではないかと考えられている。精神科医ダニエル・シーゲルは、著書『発達する精神』のなかで次のように説明する。「夢というものは、その日の経験の諸側面、遠い過去の諸要素が無数の外示的想起を、永続的で固定化された記憶の一体性ある表象へと固定化することにおいて、土台となる活動であるかもしれないのだ」。
  • 「人間の脳内で長期記憶が作られるプロセスは、コンピュータのような「人口脳」とはまったく異なる、信じがたいプロセスである。人口脳が情報を吸収するとただちにメモリーに保存するのに対し、人間の脳は受け取ったあとも情報を長いこと処理しつづけるのであり、メモリーの質は、その処理方法次第で決まるのだ」。生物学的メモリーは生きている。コンピュータのメモリーはそうでない。
  • リアルな記憶に豊かさと特徴を、および言うまでもなく、神秘性とはかなさをもたらしているのは、これが持つ偶然性だ。それは時のなかに存在し、身体が変わるとともに変化する。
  • 長期記憶を貯蔵しても、精神の力を抑えることにはならない。むしろ強化するのだ。メモリーが拡張されるにつれ、われわれの知性は拡大する。ウェブは、故人の記憶を補足するものとして便利かつ魅力的なものであるが、個人的記憶の代替物としてウェブを使い、脳内での固定化のプロセスを省いてしまったら、われわれは精神の持つ富を失う危険性がある。
  • これはわれわれの高度な論理的思考能力のリソースを奪うわけでなく、長期記憶の固定化を、およびスキーマの発達をさまたげることで、作動記憶にいっそう多くの圧力をかけるのだ。強力だが、高度に特化した道具である電卓は、記憶を助けるものだった。他方ウェブは、忘却のテクノロジーである。
  • 記憶の固定化の鍵となるのは注意力である。外示的記憶の貯蔵、および、同じくらい重要なこととして、それらのあいだに接続を作ることには、強力な精神的集中が必要である。この集中は反復によって、あるいは、強度の知的ないし感情的献身によって増幅される。注意力がシャープであるほど、記憶もシャープになる。
  • カンデルは以下のように書いている。「記憶を持続させるには、入ってくる情報を徹底的に、そして深く処理せねばならない。このことは、情報に注意を払い、すでに記憶のなかに確立している知とこの情報とを、体系的かつ意味あるかたちで結び合わせることによって達成される」。
  • オンラインで毎回われわれが受け取る大量の競合し合うメッセージは、作動記憶に負担をかけるだけではない。前頭葉がひとつのことに集中することを、きわめて困難にするのだ。記憶を固定化するプロセスは、開始すらされない。
  • ウェブを使えば使うほど、情報を生物学的メモリーにロックしておくのは難しくなる。するとわれわれは、大容量で検索の容易なネットの人工的メモリーに、ますます頼らざるをえなくなる。それによってわれわれが、浅い思考者になるのだとしても。
  • 「「どのように考えるかを学ぶ」という言葉が真に意味していることは、どのように考え、何を考えるかを、どのようにコントロールするか学ぶことです。それは、何に注意を払うか選び、経験から意味をどう構築するかを選ぶことを、意識的かつ自覚的に行うことです」。
  • われわれは自分の注意力に対するコントロール能力を譲ることで、みずからを危険にさらしているのである。
  • 書くことのもたらす効果について、ソクラテスの考えは誤っていたかもしれないが、記憶という宝を当然視してはならないという彼の警告は賢明なものであった。精神に「忘れっぽさを植えつけ」、「記憶の秘訣ではなく、想起させるもの」となる道具を彼が予言したことは、ウェブの到来によって新たな通過価値を得ている。
  • ウェブのリンクは単なるアドレスであり、情報のある別のページをブラウザがロードするよう命じるソフトウェア・タグにすぎない。シナプスが持つ有機的な豊かさも繊細さも、ここにはまったくない。アリ・シュルマンによれば、脳内の接続は「あるメモリーへのアクセスを提供するというだけではない。さまざまな意味で、メモリーを構築しているのです」。
  • 記憶を機械にアウトソーシングすれば、われわれはみずからの知性、さらにはみずからのアイデンティティの重要な部分までをも、アウトソーシングすることになるのだ。
  • 文化とは、グーグルの言う「世界中の情報」の単なる総和ではない。二進法のコードに還元しうる以上のもの、ネットにアップロードできる以上のものなのだ。文化が生命力を保つためには、各世代の構成員の精神のなかで更新されていく必要がある。記憶をアウトソーシングすれば、文化は衰退してしまう。
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」第8章 グーグルという教会

  • 美的側面に関するものも含め、グーグル社の計算に主観的判断が入りこむことはない。メイヤーは次のように言う。「ウェブのデザインは、アートというよりも科学になっています。すぐに反復でき、正確に計量できるのですから、わずかな違いを実際に見つけ、どれがよいかを数学的にすることができるのです」。
  • テイラー主義は六つの前提に基いている。「人間の労働と思考の、唯一ではないとしても第一のゴールが、効率であるということ。あらゆる面において、技術的計算が人間の判断よりまさるということ。それどころか人間の判断は、だらしなさや曖昧さ、不必要な複雑さなどに毒されているため、信用ならないということ。主観は明晰な思考をさまたげるということ。計算できないものは、存在しないか無価値であるかのどちらかだということ。市民の営為は、専門家によって最もよく導かれ、行われるということ」。驚くべきは、ポストマンによるこの要約が、グーグル社の知的倫理をも見事に要約していることだ。
  • 他のタイプのコンテンツを着実に征服していくことは、世界中の情報を「普遍的にアクセス可能で使用可能」にするという、同社の使命の遂行にもつながっている。グーグル社の理念とビジネス上の利害は、ある包括的なゴールにおいて合流する。そのゴールとは、いっそう多様なタイプの情報をデジタル化し、ウェブ上へと移動させ、データベースに取りこみ、同社による分類とランキングのアルゴリズムを通過させ、同社の呼び名で言うところの「断片」のかたちにし、できれば広告を付けたかたちでウェブ・サーファーに分配することだ。領土が拡大するごとに、グーグル社のテイラー主義的倫理は、われわれの知的生活をよりいっそう堅固に支配することになる。
  • グーグル社が大急ぎで築き上げつつある巨大図書館を、われわれの知っている図書館と混合してはならない。そこには本ではなく、スニペットが所蔵されているのだ。
  • これは、本というテクノロジーがそもそも読むことに対してーおよびわれわれの精神に対してーもたらして別種の効率性を、切り崩していまうのだ。
  • スクリーン上の文章についても、われわれは変わらずテクストをすみやかに解読できるー何についても、いままでより速く読んでいるーけれど、われわれはもはやテクストのコノテーションについて、個人的に構築された深い理解へと導かれることはない。その代わり、関連情報へのビットへ、さらにまたほかのビットへと、次々急き立てられるようになっている。「関連コンテンツ」の露天掘りが、意味のゆっくりとした発掘に取って代わったのである。
  • われわれがオンラインで入る世界であるグーグルの世界では、深い読みが持つ思索的静けさも、瞑想が持つぼんやりとした無方向性もお呼びではない。曖昧さは洞察への入り口ではなく、修正されるべきバグである。人間の脳は型落ちしたコンピュータにすぎず、これにはより早いプロセッサー、より大きなハードドライブが必要だーおよび、その思考の舵取りをする、よりよいアルゴリズムが。
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」第7章 ジャグラーの脳

  • 反応と報酬を伝達する高速システムー心理学の術語で言う「陽性強化」ーもネットは提供する。
  • ネットの双方向性のおかげでわれわれは、情報を探し、自分を表現し、他人と会話する強力なツールを手に入るわけだ。だがわれわれは同時にネットのせいで、社会的・知的刺激というエサを得るためのレバーを押しつづける、実験室のラットのごときものへと変えられてしまっている。
  • そこに見られるものは、メディアに食い尽くされている精神である。ネットに接続されているときは、自分の周囲で起きていることに気づかないことがしばしばだ。さまざまなデヴァイスを介して現れる大量の記号や刺激を処理するとき、現実世界は影を潜めるのである。
  • ウェブページをスキャンするのに費やす時間が読書の時間を押しのけるにつれ、一口さいずの携帯メールをやり取りするのに用いる時間が文や段落の構成を考えるのに用いる時間を締め出すにつれ、リンクをあちこち移動するのに使う時間が思索し熟考する時間を押し出すにつれ、旧来の知的機能・知的活動を支えていた神経回路は弱体化し、崩壊を始める。脳は使われなくなったニューロンやシナプスを、急を要する他の機能のために再利用する。
  • 所与の瞬間に作動記憶に流入する情報は「認知的負荷」と呼ばれている。脳が情報を蓄積し、処理する能力を、この負荷が超えるー水が細管からあふれるーと、情報は保持できなくなり、すでに長期記憶に保存されている情報との関連づけもできなくなる。新しい情報をスキーマに翻訳できなくなるのだ。
  • 作動記憶が限界に達すると、重要な情報とそうでないものとを、すなわちシグナルとノイズとを区別することがより困難になる。するとわれわれは、何も考えずにデータを消費する存在となってしまう。
  • リンクを追うべきか判断し、それを伝ってネットを移動することには、読む行為とはまるで異質な、精神に非常に負荷をかける問題解決作業がともなうことが判明した。ハイパーテクストを読み解くことは、読者の認知的負荷をかなりの程度増大させ、それゆえ、読んだ内容を理解し記憶する能力を弱体化するのである。
  • デジタル・テクストが洪水のようにコンピュータや携帯電話に流れこんだことで、明らかに「人々は」かつてよりも「多くの時間を読むことに割いている」。だが、それと同じくらい明らかなこととして、これはまったく別の種類の「読み」なのだ。「スクリーンを基盤とする「読み」行動が生まれつつある」とリューは書く。この行動の特徴は「ブラウジングやスキャニング、キーワードを探し、一度でまとめて読むこと、非直線的な読み」である。他方、「深い読みや集中した読みに費やされる」時間は、徐々に減少している。
  • テクストをスキミングする能力は、深く読む能力とまったく同じくらい重要なものである。ここでの話の何が違っているか、何が問題であるかといえば、スキミングがわれわれの「読み」のモードとして、支配的なものになりつつあることだ。
  • 個人的知識の耕作民から、電子データの森の狩猟民・採集民へと変わりつつあるのだ。
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」第6章 本そのもののイメージ

  • 印刷された本ー最近出版された歴史学の本であれ、200年前のヴィクトリア期の小説であれーは、インターネット接続された電子デヴァイスに移植されると、ウェブサイトに非常に似たものへと転じる。ネットワーク接続されたコンピュータにつきものの注意散漫状態が、本の言葉を包んでしまうのだ。
  • 印刷された本が有する直線性も、その直線性が奨励する静かな集中も、もろともに粉砕される。
  • グーテンベルクの発明の結果一般的なものとなった、深い読みの週間ー「その静けさは意味の一部、精神の一部」ーは衰退し、縮小しつつある少数の知的エリートの領分となるだろうことは間違いない。言い換えれば、歴史的には規範である状態へと逆戻りするのだ。
  • ノースウェスタン大学の教授グループが2005年に『社会学年報』掲載の論文で述べたところによれば、近年の読書週間の変化が示唆するのは、「大衆による読書の時代」というものが、われわれの精神史において短期間だけ生じた「例外」だということである。「われわれが現在目にしているのは、読書がかつての社会集団へと立ち戻っていく姿である。読書階級と呼ばれることになるだろう自己維持的な少数集団へと」。
  • まだ答えが出ていないのは、その読書階級が「ますます希少なものとなっていく文化資本の形式と結びついた権力と威信」を有することになるのか、それとも、「ますます秘教的になっていく趣味」を実践する変人とみなされることになるのかということだ。
  • 意識的であるにせよそうでないにせよ、コンピュータの用途に関してわれわれはある選択を下した。そのときわれわれは、ひとりでひたむきに集中するという、本が与えたところの知的伝統を拒絶したのである。われわれはくじを引き、ジャグラーを引き当てたのだ。
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」第5章 最も一般的な性質を持つメディア

  • 読み書きに関する研究を行っているノルウェーの教授、アン・マンゲンは次のように言う。「読むという行為はすべて複数の感覚に関わるものである」。書かれたものの「物質性を感覚運動的に経験すること」と「テクストの内容を認知的に処理すること」のあいだには「重要なリンク」が存在している。紙からスクリーンへの移行は、書かれたものをいかに読み進めるかを変化させるだけではない。テクストに対する注視の程度や、テクストへの没頭の深度にも影響を与えるのである。
  • ある新聞のサイトで最新のヘッドラインを見ていると、新着メールがアナウンスされる。その数秒後には、お気に入りのブロガーがブログの記事を更新したことを、RSSリーダーに教えられる。すると間髪入れず、今度は携帯電話の受信音が、メールの到着を知らせてくる。そのあいだ、スクリーン上ではフェイスブックやツイッターのアラートが点滅していたりするのだ。ネット上を流れるあらゆる情報に加え、われわれはコンピュータで動作しているソフトウェア・プログラムにも直接アクセスできるーこれらもまた、競ってわれわれの精神の平穏を乱す。コンピュータのスイッチを入れるたび、ブロガー兼SF作家のコリー・ドクトロウが「中断テクノロジーの生態系」と呼ぶもののなかへ、われわれは没入することになるのだ。
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」第4章 深まるページ

  • 人間の脳の自然状態は、動物界におけるわれわれの親戚たちのほとんどがそうであるように、注意散漫の状態である。性質上われわれは視線を動かす傾向にあり、したがってわれわれの注意の対象も次々と移り変わる。
  • 本を読むということは、単一の静止した対象に向かい、切れ目なく注意を接続させねばならない、不自然な思考プロセスを実行することである。それは読者を、T・S・エリオットが『四つの四重奏曲』で言うところの「回転する世界における不動の点」に置くものである。周囲で怒っていることすべてを無視するよう、次々異なる感覚的キューに注目しようとする衝動に抵抗するよう、読者は自分の脳を訓練しなければならない。
  • 注意散漫という本能に対抗するのに必要な神経リンクを作り出す、ないし強化することを行い、みずからの注意力に「トップダウン・コントロール」を課さねばならないのだ。
  • キングズ・カレッジ・ロンドンの心理学者、ヴォーン・ベルによれば、「相対的に中断することなく単一の作業に集中できる能力」は、「われわれの心理の発達史において、奇妙に異常な状態」であると言える。
  • 画家や作曲家と同様、作家には「知覚を変える」能力があったのだが、その変更は「外的刺激に対する感覚的反応を、さまたげるのではなく豊かにし、人間のさまざまな経験に対する共感的反応を、狭めるのではなく拡大する」方向に向かうものだった。本のなかの言葉は、人々の抽象的思考能力を強化しただけではない。物理的世界、本の外にある世界についての人々の経験を、豊かにするものでもあったのである。
  • 印刷されたページをめくることで、議論や物語のラインをたどっていくという規律をみずからの精神に教え込んだとき、われわれの先祖は、以前より思索的で、反省的で、想像力ある存在になった。