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Jun
19th
Thu
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普遍的なデザインというのは、
 そうしようとしても、どこかに
 いまの時代が入ってしまうんです。
 だから、スタンダードなものを
 めざそうとすると、
 あんがいダメになっちゃう。
 デザインというものは、
 その時代のいちばんイカしたものに、
 後世の人が影響を受けて
 真似するようになり、使うようになって、
 スタンダード化して残るのです。
 だから、
 『特に何もしないデザイン』はダメ。
 いま、いちばんかっこいいものを
 作るべきです
Jun
10th
Tue
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須賀敦子「霧のむこうに住みたい」

  • そんなアドリアーナのアスパラガスは、一年に一度、春の気候がやっとおちついてバラが咲くころ、きびしい冬のあとをねぎらうようにして、私たちの食卓にのった。(アスパラガスの記憶)
  • そのとき、まったく唐突に、ひとつの考えがまるで季節はずれの雪のように降ってきてわたしの意識をゆさぶった。(となり町の山車のように)
  • 五月の半ばにローマにいるというのは、それだけでありがたいようなことだ。オペラっぽく、ある晴れた日、と書きたいのだけれど、あいにく曇りで、牛乳色の空気のなかを、ポプラの綿毛がふわふわとただよっている。(ローマに住みたい)
  • ミケランジェロもボッティチェリも、色とりどりのリボンの箱をざっと目のまえに空けられた感じで、いま考えると、ただ驚いただけだった。要するに、ほとんどなにもわからなかった。(フィレンツェー急がないで、歩く、街。)
  • パリの合理性(合理性は知性のほんの一面でしかない)に息がつまりそうになっていた自分には、イタリアの包容力がたのもしかった。なにも、かたくなることはないのだ。そう思うと、視界がすっとひらけた気がした。(フィレンツェー急がないで、歩く、街。)
  • ミラノの四季について書こうと思ったが、ほんとうは、ミラノには、二季しかないのではないかと思っている。冬と夏が、どっしりとかまえていて、春は、ほんの挨拶の程度、秋になると、少なくとも日本語の秋という言葉からうける、美しい澄んだ季節は、全くないといっていい。(ミラノの季節)
  • 戦争のあとに植えられたとしかおもえぬこの若木は、春になると、まっさきに、おもいがけない白の花を、賑やかに咲かせてくれる。スモッグにとざされて暗い冬を送った街路樹が、まだ新芽など考えもつかない頃なので、この花をみると、春が来たと胸がおどる。(ミラノの季節)
  • 九月に入ると雨が多くなり、しとしとと何日も降りつづく。日本の時雨のような優しさはなにもなっくて、いじわるで灰色である。ミラノはのっぺらぼうになり、冬を待つだけである。(ミラノの季節)
May
1st
Thu
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川上弘美「晴れたり曇ったり」

  • どんな匂いなの、春の雪は。そう質問すると、彼女は少し首をかしげながら、とっても淡くて、冷たい匂いなの、と答えた。都会の春の雪の匂いは、冬の雪の匂いとは、ちがうの。はかなくて、少しひねくれてて、それからね、ちょっと飽きっぽい感じもするの。そんなふうにつけ加えたりもした。飽きっぽい匂いって、へんなの。一緒に笑ってから、そのままずっと忘れていたが、今になってみると、ぴったりした言葉だったなあと、感心する。今年、暦の上の春は、二月四日にくる。(春の雪ー如月)
  • この瞬間、東京の、無数のコンビニエンスストアの、無数の肉まんが無数の湯気をほかほかたてているんだ。そう思って、体の底が、その底よりもさらに深い暗い場所へ向かってしずんでゆくような心地をおぼえた。こわい。みんながしあわせであるしくみは、こわい。でも自分はしあわせでいたい。みんなも、しあわせでいてほしい。だからますます、やたらめったら、無闇に、こわい。肉まん(わざわざ)と、スポーツ紙を三紙買った。お金を払っている間に、少しこわさは減った。減ってゆくことがまた、ものすごく、あさましい感じだった。(厳然たる)
  • 小説を書くとき、内容や筋道については曖昧でいいのだが、「雰囲気」だけははっきり決まっていないと書き始められない。たとえば「笑えばいいのか悲しめばいいのか判断のつかない微妙な雰囲気」だの、「道端の空き缶を蹴ってみたがはずれて気まずい雰囲気」だの、「世の中の全部を許してしまいたくなるうきうきした雰囲気」だの。(Weekly日誌)
  • 距離が近いと、感情がそのままつぶてのようにやってくる。走り抜けられなかった。いまいましい。邪魔なやつ。まったくもう。青年の体が、そういう思いをわたしに向けて発散していた。心の深いところではない、体の表面で、火花を飛ばすような感じで、発散していた。火花にはびっくりしたけれど、びっくりの中には、恐怖ばかりがあったのではなかった。愉快も、ちょっとふくまれていた。たぶん、本気で青年が怒っていたのではなかったからだ。ただ体のうわっつらだけで、反射のように、ぱちぱちはぜていただけだった。そのうえ、はぜていることに気を取られたために、「ちぇっ」という気分を呼んだ原因である当のわたしに、思いもかけず近づきすぎてしまった。(ふいうち)
  • わたしの記憶の中にあるものと、あなたの記憶にあるもの、若い記憶の中にあるもの、年季のいった記憶の中にあるものは、重なりつつ、遠ざかってゆく。(石井桃子『幼ものがたり』)
  • 家の中には、きれいなものが満ちあふれていた。それらはみな安価なものなのだけれど、いい匂いや朝のきらきらした光やおいしい食事の記憶と対になっていて、本来よりもずっと価値のある美しいものとして、子供の目にうつっていたのだ。(記憶)
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川上弘美「ゆっくりさよならをとなえる」

  • ヒトも含めた動物の野生は、ほんらい獰猛なものである。みだりに知らぬものにふれたりすり寄ったりしない、という行動原則は、わたしたちの本能の中に深く沈んである、防衛の策であるにちがいない。しかしその本能をおいて、さわってはならないものにあえてさわったとき、踏みこんではいけないところにあえて踏みこみ、結果達成したときの、一種恐怖をともなったやすらかさは、いわくいいがたいものである。(雨蛙)
  • 夏である。この季節、生きものは地に満ちる。(蝶々恐怖)
  • 太郎はそのころ、迷っていたのか。深い逡巡だったことだろう。人はどのくらいの逡巡を生きている間に繰り返すのだろう。ぼんやりと思いながら、私は増えていくとんぼを眺めた。川は静かに流れてゆく。電車が、鉄橋の上をごうごうと通る。小さい私が、大きな川の流れの前に、立っている。(多摩川)
  • まごころをこめて雨乞いしたにもかかわらず、遠足当日は快晴だった。(井の頭公園)
  • 驚きは純粋なものである。善し悪しは関係ない、たんに標準でないもの多数でないものを見たときの原始的な驚愕である。正規分布の端にあるものを見るとき、人が感じる単純な驚き。(わからないことなど)
Apr
23rd
Wed
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川上弘美「なんとなくな日々」

  • 昔の日本の家は、今よりもずいぶん陰影に富んでいて、その中でも台所はさらに土に近い場所だった。今の台所は土からずいぶん遠くなった。それでも、土から来たものがここで煮たり焼いたりされ、野を駆けていたものがここで切りひらかれる。ほんとうはそんな実感などなしに、包丁を使ったり火を使ったりしているのであるが、実感はなくとも気持ちの奥ではそれを知っているのに違いない。ものみな萌え出づる春ともなれば、土の記憶は常よりも鋭く身の内によみがえるのに違いない。(台所の闇)
  • 世の中は、うまくまざっているようで、案外まざっていないのだな、というのがその時の感慨である。このところの世のさまざまな事件を見るにつけ、ノートに記憶したあの一週間の自分の生活のことを思い出す。まざらないまま、自分のいる場所こそが世界の中心なんだと思いこむことのこわさを、思う。(まざるまざらない)
  • 情報というのは薬と一緒で、使う本人のやり方次第で役にも立ち毒にもなるのだろうから、どんな情報だって、それが特定の個人をはなはだしく傷つける場合以外は、どんどん流されるべきものには違いない。(長良川)
  • 風邪をひいてしまった。「春の風邪」という言葉は、季語にもなっている。冬にはやるような重篤な風邪ではない。微熱に咳。ほてった頬をガラスに押しつけると気持ちいい、そういう風邪である。(春の風邪)
  • たっぷりとだしのきいたおつゆ。ほの甘いあぶらあげ。山椒とゆずのかおり。関東では絶対に食べられないきつねうどんである。体の芯のほうからあたたまってくる。気持ちが静かにほとびてゆく。(すっぽん)
Feb
4th
Tue
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」エピローグー人間的要素

  • 能力のなさゆえにではなく、特別な才能のひらめきゆえに、決まりごとから逸脱した書き方をする希少な学生を、Edexcelのソフトウェアはどうやって見分けるのだろうかとわたしは思う。答えはわかっているー見分けられまい。ジョゼフ・ワイゼンバウムが指摘したとおり、コンピュータは規則に従うのであって、判断は行わない。
  • コンピュータに頼って世界を理解するようになれば、われわれの知能のほうこそが、人口知能になってしまうのだ。
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」第10章 わたしに似た物

  • われわれを最も人間的にしているものは、われわれの最も計算不可能な部分だとワイゼンバウムは信じるに至ったーその部分とは、精神と身体とのつながり、記憶や思考を形成する経験、感情や共感の能力である。
  • われわれがコンピュータといっそう親密に関わるようになる際にーわれわれが人生の多くを、スクリーン上で点滅する身体を持たないシンボルを通じて経験するようになる際にー直面する大きな危険は、人間性を失ってしまうこと、われわれと機械を区別している特性そのものが犠牲にされることだ。この運命を回避する唯一の方法は、われわれの精神活動と知的追求における最も人間的な部分、とりわけ「知を必要とする作業」を、コンピュータにゆだねまいとする自覚と勇気を持つことだとワイゼンバウムは述べる。
  • あらゆる道具は、可能性を開くとともに、限界をも課すものだ。使えば使うほど、われわれはその道具の形式と機能に合わせて自分を仕立て直していくことになる。
  • テクノロジーがわれわれを強めると同時に弱めてもいるそのあり方を、知性におけるカルキンの師匠、マーシャル・マクルーハンが解明している。言及される機会は少ないものの、彼の最も洞察に満ちた著作のひとつである『メディア論』には、どの部分であれ、道具によって「増幅」されたわれわれの身体の部分は、最終的にはその道具によって「鈍く」されるのだとの記述がある。
  • 精神の道具が増幅すると同時に鈍くするのは、われわれの生来の能力のうち、最も内密で、最も人間的なものーすなわち、理性的思考、知覚、記憶、感情なのだから。
  • いつ食事し、いつ働き、いつ眠り、いつ起きるかを決めるにあたり、われわれは自分の感覚に耳をすませることをやめ、時計に従うようになった。
  • 地図作成者の技術により、われわれの先祖のナヴィゲーション・スキルは格段に増幅された。人間は初めて、行ったことのない土地や海を、自信を持って移動できるようになったー探検を、商業を、戦争を、歴史的規模で拡張することになる前進だ。
  • マクルーハンが指摘したかったのは、あらゆる新しいテクノロジーを、および進歩一般を正しく評価するには、何が得られたかに対する感受性だけでなく、何が失われたかに対する感受性も必要だということだ。
  • ミッチェルの記述によれば、「社会的思考に関与する部分の脳が、慢性的な活動過剰状態になった」ことで、「生物ではない物質」をも含め、精神の存在しないところにもわれわれは精神を認めるようになったのだ。さらに、それの精神が現実のものであれ想像上のものであれ、接触した相手の精神の状態を、われわれの脳は模倣する性質があることを示す証拠も多く発見されている。
  • 個々の自律性から来る面倒は一掃され、工場全体はより効率よくなり、アウトプットもより予想しやすくなった。産業は栄えた。面倒とともに失われたのは、個人のイニシアティヴ、クリエイティヴィティ、および気まぐれである。
  • コンピュータ・プログラマーのトマス・ロードが主張するように、ソフトウェアは最終的に、人間の活動のなかでも最も内密で個人的な部分を、その各段階が「ウェブページの論理でエンコードされている」心のこもっていない「儀式」へと変えてしまうかもしれないのだ。
  • 心的作業を自動化し、思考や記憶の流れをコントロールする強力な電子システムにゆだねるとき、われわれが直面する最大の危険のひとつは、科学者ジョゼフ・ワイゼンバウムと、芸術家リチャード・フォアマンの、両者ともに恐れに表明されていたものであるーすなわち、われわれの人間らしさ、およびわれわれの人間性の、ゆっくりとした侵食。
  • 穏やかで注意力ある精神を必要とするのは、深い思考だけではない。共感や同情もそうなのだ。
  • 「ある種の思考、とりわけ他者の社会的・心理的状況に関する道徳的決定を行うためには、充分な時間と考察が必要とされる。事態があまりに速く進んでしまった場合、他者の心理的状況にまつわる感情を、充分に経験できない可能性がある」
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」脱線ーこの本を書くことについて

  • けれども最も深刻な変化は、何世代にもわたるもっとゆっくりとしたペースで、テクノロジーが労働・余暇・教育に根づくにつれて展開されるーその変化は社会と文化を規定する、すべての規範、すべての週間において生じるものだ。われわれが「読む」方法は、どう変わりつつあるのだろうか?「書く」方法はどうだろうか?「考える」方法は?これらの問いは、われわれ自身に対してだけでなく、われわれの子どもたちに対しても問わねばならない問いである。
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」第9章 サーチ、メモリー

  • データ貯蔵に用いられる機械が、より大容量で、フレキシブルで、レスポンスのよいものになるにつれ、人工的メモリーと生物学的メモリーとの境界の曖昧化に、われわれは慣れていった。
  • ブルックスが言うように、記憶が「アウトソーシング」可能であるという考えは、歴史上、現在以外の時点においては想像もできないものであったろう。古代ギリシア人にとって、記憶は女神だったーミューズたちの母、ムネモシュネである。アウグスティヌスにとって、それは「巨大かつ無限の深み」、神の力が人間に反映されたものだった。
  • 長期記憶の貯蔵には、新しいタンパク質を合成する必要がある。短期記憶の貯蔵にこれは必要ない。
  • 言い換えれば、長期記憶の形成には、生化学的変化だけでなく解剖学的変化もともなうのである。なぜ記憶の固定化に新しいタンパク質が必要であるか、これで説明がつくとカンデルは考えた。
  • 記憶間の結合の多くはおそらく、われわれが眠っているとき、つまり海馬が認知上の雑事のいくつかから解放されているときに、形成されるのではないかと考えられている。精神科医ダニエル・シーゲルは、著書『発達する精神』のなかで次のように説明する。「夢というものは、その日の経験の諸側面、遠い過去の諸要素が無数の外示的想起を、永続的で固定化された記憶の一体性ある表象へと固定化することにおいて、土台となる活動であるかもしれないのだ」。
  • 「人間の脳内で長期記憶が作られるプロセスは、コンピュータのような「人口脳」とはまったく異なる、信じがたいプロセスである。人口脳が情報を吸収するとただちにメモリーに保存するのに対し、人間の脳は受け取ったあとも情報を長いこと処理しつづけるのであり、メモリーの質は、その処理方法次第で決まるのだ」。生物学的メモリーは生きている。コンピュータのメモリーはそうでない。
  • リアルな記憶に豊かさと特徴を、および言うまでもなく、神秘性とはかなさをもたらしているのは、これが持つ偶然性だ。それは時のなかに存在し、身体が変わるとともに変化する。
  • 長期記憶を貯蔵しても、精神の力を抑えることにはならない。むしろ強化するのだ。メモリーが拡張されるにつれ、われわれの知性は拡大する。ウェブは、故人の記憶を補足するものとして便利かつ魅力的なものであるが、個人的記憶の代替物としてウェブを使い、脳内での固定化のプロセスを省いてしまったら、われわれは精神の持つ富を失う危険性がある。
  • これはわれわれの高度な論理的思考能力のリソースを奪うわけでなく、長期記憶の固定化を、およびスキーマの発達をさまたげることで、作動記憶にいっそう多くの圧力をかけるのだ。強力だが、高度に特化した道具である電卓は、記憶を助けるものだった。他方ウェブは、忘却のテクノロジーである。
  • 記憶の固定化の鍵となるのは注意力である。外示的記憶の貯蔵、および、同じくらい重要なこととして、それらのあいだに接続を作ることには、強力な精神的集中が必要である。この集中は反復によって、あるいは、強度の知的ないし感情的献身によって増幅される。注意力がシャープであるほど、記憶もシャープになる。
  • カンデルは以下のように書いている。「記憶を持続させるには、入ってくる情報を徹底的に、そして深く処理せねばならない。このことは、情報に注意を払い、すでに記憶のなかに確立している知とこの情報とを、体系的かつ意味あるかたちで結び合わせることによって達成される」。
  • オンラインで毎回われわれが受け取る大量の競合し合うメッセージは、作動記憶に負担をかけるだけではない。前頭葉がひとつのことに集中することを、きわめて困難にするのだ。記憶を固定化するプロセスは、開始すらされない。
  • ウェブを使えば使うほど、情報を生物学的メモリーにロックしておくのは難しくなる。するとわれわれは、大容量で検索の容易なネットの人工的メモリーに、ますます頼らざるをえなくなる。それによってわれわれが、浅い思考者になるのだとしても。
  • 「「どのように考えるかを学ぶ」という言葉が真に意味していることは、どのように考え、何を考えるかを、どのようにコントロールするか学ぶことです。それは、何に注意を払うか選び、経験から意味をどう構築するかを選ぶことを、意識的かつ自覚的に行うことです」。
  • われわれは自分の注意力に対するコントロール能力を譲ることで、みずからを危険にさらしているのである。
  • 書くことのもたらす効果について、ソクラテスの考えは誤っていたかもしれないが、記憶という宝を当然視してはならないという彼の警告は賢明なものであった。精神に「忘れっぽさを植えつけ」、「記憶の秘訣ではなく、想起させるもの」となる道具を彼が予言したことは、ウェブの到来によって新たな通過価値を得ている。
  • ウェブのリンクは単なるアドレスであり、情報のある別のページをブラウザがロードするよう命じるソフトウェア・タグにすぎない。シナプスが持つ有機的な豊かさも繊細さも、ここにはまったくない。アリ・シュルマンによれば、脳内の接続は「あるメモリーへのアクセスを提供するというだけではない。さまざまな意味で、メモリーを構築しているのです」。
  • 記憶を機械にアウトソーシングすれば、われわれはみずからの知性、さらにはみずからのアイデンティティの重要な部分までをも、アウトソーシングすることになるのだ。
  • 文化とは、グーグルの言う「世界中の情報」の単なる総和ではない。二進法のコードに還元しうる以上のもの、ネットにアップロードできる以上のものなのだ。文化が生命力を保つためには、各世代の構成員の精神のなかで更新されていく必要がある。記憶をアウトソーシングすれば、文化は衰退してしまう。
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ニコラス・G・カー「ネット・バカ」第8章 グーグルという教会

  • 美的側面に関するものも含め、グーグル社の計算に主観的判断が入りこむことはない。メイヤーは次のように言う。「ウェブのデザインは、アートというよりも科学になっています。すぐに反復でき、正確に計量できるのですから、わずかな違いを実際に見つけ、どれがよいかを数学的にすることができるのです」。
  • テイラー主義は六つの前提に基いている。「人間の労働と思考の、唯一ではないとしても第一のゴールが、効率であるということ。あらゆる面において、技術的計算が人間の判断よりまさるということ。それどころか人間の判断は、だらしなさや曖昧さ、不必要な複雑さなどに毒されているため、信用ならないということ。主観は明晰な思考をさまたげるということ。計算できないものは、存在しないか無価値であるかのどちらかだということ。市民の営為は、専門家によって最もよく導かれ、行われるということ」。驚くべきは、ポストマンによるこの要約が、グーグル社の知的倫理をも見事に要約していることだ。
  • 他のタイプのコンテンツを着実に征服していくことは、世界中の情報を「普遍的にアクセス可能で使用可能」にするという、同社の使命の遂行にもつながっている。グーグル社の理念とビジネス上の利害は、ある包括的なゴールにおいて合流する。そのゴールとは、いっそう多様なタイプの情報をデジタル化し、ウェブ上へと移動させ、データベースに取りこみ、同社による分類とランキングのアルゴリズムを通過させ、同社の呼び名で言うところの「断片」のかたちにし、できれば広告を付けたかたちでウェブ・サーファーに分配することだ。領土が拡大するごとに、グーグル社のテイラー主義的倫理は、われわれの知的生活をよりいっそう堅固に支配することになる。
  • グーグル社が大急ぎで築き上げつつある巨大図書館を、われわれの知っている図書館と混合してはならない。そこには本ではなく、スニペットが所蔵されているのだ。
  • これは、本というテクノロジーがそもそも読むことに対してーおよびわれわれの精神に対してーもたらして別種の効率性を、切り崩していまうのだ。
  • スクリーン上の文章についても、われわれは変わらずテクストをすみやかに解読できるー何についても、いままでより速く読んでいるーけれど、われわれはもはやテクストのコノテーションについて、個人的に構築された深い理解へと導かれることはない。その代わり、関連情報へのビットへ、さらにまたほかのビットへと、次々急き立てられるようになっている。「関連コンテンツ」の露天掘りが、意味のゆっくりとした発掘に取って代わったのである。
  • われわれがオンラインで入る世界であるグーグルの世界では、深い読みが持つ思索的静けさも、瞑想が持つぼんやりとした無方向性もお呼びではない。曖昧さは洞察への入り口ではなく、修正されるべきバグである。人間の脳は型落ちしたコンピュータにすぎず、これにはより早いプロセッサー、より大きなハードドライブが必要だーおよび、その思考の舵取りをする、よりよいアルゴリズムが。