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May
18th
Sat
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西村佳哲「なんのための仕事?」

  • たとえば美味し<そう>なラーメン屋の看板や、身体に良さ<そう>な食品パッケージは本当に増えた。増えすぎてしまったその経験側から、デザインされている感がまったくないものの方がむしろ良さ<そう>に見えるというわからなさまで生じていて、こうした部分だけ取り上げると、デザインは世界を嘘臭くしたり、紛らわしくする仕事になってしまっている感がある。
  • 「ずっと手にしていたい」とか「眼が離せない」とか、わけもなく「いい」と感じさせる作用を物事に与える魔法が。
  • つまり「デザイン」自体には、希望も絶望もない。インターネットそのものに未来があったわけではないのと同じで、大事なことは私たちがその向こうに何を求めているのか?だ。その力の影響を受ける人間を、どんな存在として見ているか?ということ。意味も価値もそこにかかっている。
  • いまこの瞬間に遠くで、併行して進んでいるにちがいない他の時間のことを思い浮かべるときに生まれる、不思議な気持ちの膨らみはなんだろう?
  • 歴史に残るデザイナーたちもただ楽しかったんだと思う。そのエネルギーがある時代にはルネッサンスになり、モダンデザインになり、そして文化になってゆく。それはとても豊かなことですよね。でも今の時代を見ていると、その楽しさが文化になる前に消費している。使い捨てていて。
  • でも、全体性がある方が間違いなく生き生きとする。
  • BGMに限らずこの社会を構成している物事の多くが、意思のない週間や仕事の集積になってしまっていて、それらが人間に与える怖い効果は何かと言うと、「どーでもいい」という感覚の敷衍だ。
  • かといって、ホワっとしたお母さんの手工芸とも違う。やっぱり生活を背負っているかいないかが大事で。シビアですよね。いくらなら売れるか。どういう人と仕事をするか。選べない仕事があり、でも絶対にやりたくない仕事があり。その後ろには暮らしがあって。
  • 慣れてしまうことが、怖くないですか?傷つけることも傷つくことも。私はそれが一番怖い。自分の中のいろんなスイッチを切ったりブレーカーを落としていること。
  • 仕事は、自分の課題と社会の課題や、自分の喜びと他人の喜びであるとか、二つの世界が重なるところで形になるものだから。
  • “関係”は自分のものではないことを、忘れてはいけないと思う。
  • ”そこに居合わせた人がすべて”方式で、ものごとを立ち上げていきたいと思うんです。
  • 「出来ていない」という思考は、自分を否定している。それだけならまだしも、自分と一緒に働いている人たちの存在をも身勝手な望ましさで評価していて、ありのままのその人のことは知ろうとしてない可能性がある。
  • 彼らは自分の持ち時間や力を、大切な人たちと“共に生きてゆく”ために使っているように見える。そこに光を感じている。
  • 喉・胸・腹と縦方向につづく内面の活動空間が、身体の垂直性と重なっているのが面白い。私たちが語る話について、「深い」とか「浅い」と加える表現は、この井戸のような垂直性の描写なんだろう。
  • もし一人ひとりの気づきや思い付きが、埋没したり萎えることなく育つ、創造的な組織や場をつくりたかったら、なによりも必要なのは、アイデアの豊富な人でもプレゼンテーション・スキルの高い人でもない。人の話しを「きける」人の数と、「きき合える」関係性の質がその条件になるんじゃないか。親子のような間柄でもこれは同じで、相手の考えや気持ちを受け取る感受性の質が、伝える側の表現力が拡がるスペースを提供するのだと思う。

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西村佳哲「いま、地方で生きるということ」

  • 成長とは、自分が安心していられる領域が広がることです。そこを広げるには、馴染みのある普段の快適な領域から少し外に出てみなければならない。冒険が要る。けど、そこには未知で、容易ではなくて、あらかじめ保証のない世界が広がっているわけです。
  • つねづね「仕事」という言葉の意味が換金労働に固定されがちな状況をつまらなく感じていた自分にとって、そうではない仕事の姿、ただ「働き」と呼ぶ方が相応しい動きのあらわれが嬉しい。
  • もちろん安心や安全を求める気持ちはわかるけど、それはあたり前のことだし、簡単ではないけど、生産者と付き合えばいいだけのことでもある。JAS認定じゃなくて、自分が好きな人がつくっている物を食べればいいだけのことだったりするんじゃないかな。信じている人がつくった物を食べることの方が、農薬使っているとか使っていないといったことより大事な気がするんですよね。
  • 自然と付き合う身体的な能力とか感覚とか、大胆さと慎重さと美しさみたいなものを、彼らは圧倒的に持っているんですよ。
  • 応答と反応は違うんです。たとえば馬も力づくでかかわれば反応はする。でもそれは、心を殺して従順になるか、恐れを感じて逃げるかなんです。応答じゃあない。
  • 欧米では公(Public)・共(Commom)・私(Private)の三つは別々の概念として捉えられている。Publicは社会のことであり、Privateは個人の私的なこと、その間にあるCommon(Commons)は共有の緑地や場を指しており、名前もこのとおり分かれている。ところが日本では「公共」という言葉で、このうち二つが一緒くたになっている。
  • 日本の都市における共(Common)的な空間の一例である路地裏において、その場を共有していた人々が自分たちで掃除をしなくなっていった大きな契機のひとつに、道路のアスファルト化があったという。
  • 自分の好きな場所・コト・人を、身近な場所にどれぐらい持っているか?どれくらいそれに気づいているか?が、なにより大切な気がしてきた。
  • 経済的な意味合いとは違う豊かさは、どれだけその場所に誇りを持っているかということと、身近な人をどれだけ尊敬できているかということ。
  • なにかデザインしたり、計画するわけでもなく、話をきくことだけがかかわりかもしれないし。隣に座ることだけが、かかわりになることもあるかもしれないし。
  • 都市部ではあるゲームへの参戦が強いられていて、手持ちのチップが少なかったり、ルールもよくわからないまま、一歩的に負かされている人が多いように思う。同じ構造が日本の中にもある。

May
7th
Tue
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内田樹・岡田斗司夫「評価と贈与の経済学」

  • 単独で「誰にも迷惑をかけない、かけられない」生き方を貫くより、集団的に生きて「迷惑をかけたり、かけられたり」するほうが生き延びる確率が圧倒的に高いんですから。
  • 個人の「原子化」は平和と繁栄の代価なんです。
  • われわれがいま当然のように生きている文明的な空間って、誰かが必死になって無秩序を世界の外に押し戻す仕事をしてくれたおかげで、ようやく確保されているものなんだから。
  • 当たり前に見えることが実は無数の人間的努力の総和なんだということを思い知るって、ほんとうに大切なんですよ。
  • 人間は強いものに導かれて強くなるんじゃなくて、弱いものをかばうことでしか強くなれない。
  • 人間は誰かに贈与するっていうシチュエーションに遭遇しないと、爺分は実は「持っている」側、つまり贈与を受けている側だっていう、へりくだった自覚をすることが不可能だから。
  • 教育は非効率だけど、非効率でなかれば多様な才能は拾えない。
  • 勝ち負けだけが問題で、誰もが他人との比較でどっちが上か下か、その優劣ばかり気にしている。でも、数値的に優劣が決定できるのは「ほかの条件がすべておなじ場合」だけです。だから、競争社会というのは必然的にすさまじい規格化圧力が働く社会になる。
  • お互いにいつも貸し借りがアンバランスで、妻と夫それぞれ相手に贈与して、反対給付義務を感じて、それを相殺しようと絶えず動き続けることで夫婦のバランスが保たれるんです。

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長谷川祐子「キュレーション」

  • そこには容易くデコードできる意味と色の美しい饗宴が同時存在し、共時的な「印象」という誰にでも共有できる大まかな入り口がある。ある意味でどこででも通用するオールマイティな中庸の性質を備えているといえる。
  • 人びとの意識を変えるという確信犯的目的に基づき、視覚を通した集合意識、集合記憶をすくいとり、「文化」としてフォーマット化し、次代に接続しようとする善意の歴史家。それがキュレーターである。
  • 知覚そのものの神秘と可能性について語る彼は、芸術家としての美学と未知のビジョンへの想像力と、科学者・心理学者の実証的態度とを併せもっていた。
  • 意識は情報によってつくられる雲のようなものである。ハイテク機器はここにある事象を比喩的に視覚化する手段にすぎない。この都市は意識という雲に満ちていて、その共鳴によって喜怒哀楽や知の構築がなされる。カオティックだが、一つの理念にみちびかれれば、それが自己組織化されて、新しい秩序の地平が生まれてくる可能性がある。
  • 19世紀、価値はすでにそこにあった。20世紀は批判的主体、新しく価値を更新するための一つの思考のシステムをつくった。そして21世紀は、各自が主観的に自分の情報と体験を更新していく時代といえる。
  • 美術館は非日常的な空間である。我々は予測可能な日常空間だけでは息がつまってしまう。予測不可能で非日常的な要素が都市の中には必要で、例えば都市の中に流れている水としての川がその例である、と。
  • それは孤立したアナザー・ワールドではなく、その空間を透かして見える外の世界までも異化してしまう相互浸透性をもった非日常だったからである。
  • 自分の生存のために描かれる作品と、他者とのコミュニケーションを願望しながら描かれる作品の違いは、前者の内側に向けられる純度の高さによる。それはしばしば後者のテクニックや統合力を凌駕するインパクトをもっていた。

Mar
20th
Wed
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あなたがまだ勝負を続けているということは、実は相手と「同レベル」なのです。 もしまったく実力が違いすぎるなら、「負けないようにする」なんて考える間もなく、瞬殺されています。
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Mar
16th
Sat
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巡りの環「僕たちは島で、未来を見ることにした」

  • 巡りの環の企業理念でもある「島の学校」づくりへの取り組みは、島に住んでいる高齢の方、自分の考えを持っている方を講師として登場させることが魅力だと思っている。人前で話したり、相手が感動してくれたりすると、地域に対する愛着が湧いてくる。
  • 他人事であることが何もない社会。それはつまり、誰もが他人のことを自分のことのように感じられる社会でもあります。
  • 僕たちは稼ぎなら学ぶ、海人の会社。時には発信者でもあり、またあるときは参加者としても関わっていけるイベントをつくりたい。そして僕たちのイベントに参加者として関わってくれる人も、協力者になったり、はたまた発信者になっていっていただきたい。そういう循環が生まれてこそ、イベントはただのツアーパッケージではない価値を放ち始めると思っています。
  • 「島の学校」づくりはわかりやすく言えば、島に来てもらって、島まるごとを使っていろんなことを体験し考えて、そして自分にとって人生の次の一歩を見つけて島を卒業していける、そんな構想です。
  • 人間の幸福とはなんなのか、人がしあわせに生きる暮らしとはどんなものか、それを考えるきっかけを与える学校のようなものをつくるのが最終的な目標です。
  • その期待にずっと応え続ける中東さんの目には、お金の損得なんて見えてなくて、大切にしておられるのは、人が、その“もの“にどれだけの気持ちで向かっているか、だけなのです。お金はその後に勝手についてくる、きっとそう考えておられるんだなと感じました。

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ポール・オースター「鍵のかかった部屋」

  • 真実は僕がそうあってほしいと思うよりはるかに込みいっている。
  • 他人の気持に入りこんで、もはや自分の気持などどうでもよくなってしまうくらいそれを完全に引きうけるーそういうことをできる人間がいるということを、彼の行為は教えてくれたのだ。それは僕が生まれてはじめて目にした真に道徳的な行為だった。
  • おそらくわれわれは自分自身のために存在しているのだろうし、ときには自分が誰なのか、一瞬垣間見えることさえある。だが結局のところ何ひとつ確信できはしない。人生が進んでゆくにつれて、われわは自分自身にとってますます不透明になってゆく。自分という存在がいかに一貫性を欠いているか、ますます痛切に思い知るのだ。
  • 人と人とを隔てる壁を乗りこえ、他人の中に入っていける人間などいはしない。だがそれは単に、自分自身に到達できる人間などいないからなのだ。
  • 自分で考えるということ、自分で自分の決断を下すということ、私はそれを彼から教わったのです。
  • パリの空はそれ自身の掟を持っている。そしてそれらの掟は眼下の街とは無関係に機能している。建物たちががっしりと、いかにも地に根を下ろしたような難攻不落の印象を与えているとすれば、空は巨大な不定形であり、つねにたえざる激変のただ中にいるのだ。
  • 思考が終わるところで世界がはじまるのだ、と僕は自分に言い聞かせた。しかし(と僕は僕自身に言い返した)、自己もまた世界の中に存在するのであり、自己から生まれる思考もまた、世界の中にあるのではないか、と。
  • この何があっても不思議ではないという事実、この事実の力こそが、物語を語ることを難しくしているのだと思う。なぜなら、何があっても不思議ではないとき、そのときこそがまさに、言葉が失われはじめる瞬間にほかならないからだ。